電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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第262回

トランジスタ誕生70周年を迎え、価値創造の日本企業に注目


~ベル研の記者会見に集まった記者たちはその価値に全く気が付かなかった~

2017/12/1

 1947(昭和22)年の12月23日、クリスマスイブの前日のことである。米ベル研究所のウィリアム・ショックレーはバーディーン、ブラッテンと3人のチームでトランジスタの発明に成功する。

点接触型トランジスタの構造(ショックレーの「ELECTRONS AND HOLES IN SEMICONDUCTORS」より)
点接触型トランジスタの構造
(ショックレーの「ELECTRONS AND HOLES IN SEMICONDUCTORS」より)
 この世紀の発明であるトランジスタの命名は、ゲルマニウム内部を通過して成立する2つの回路の一方が他方の抵抗を変えるという意味の「トランス・レジスタ」を縮めてトランジスタとされたのだ。ベル研のトップと関係者はトランジスタの誕生を極秘扱いにし、翌48年6月30日に一般公開に踏み切る。専門紙や一般紙の記者も大勢が押しかけた。しかして何と、一般マスコミはその重大性に全く気が付くことがなかったのだ。

 ハーバード大学をはじめ一流大学を出たバリバリのエリート記者たちが、トランジスタ発明のニュースリリースを読んで、その価値を認めることなく、1紙を除いてすべての新聞社がこれを全く無視した。すなわちトランジスタ発明の報道はほとんどされることなく、ニュースリリースは記者たちのごみ箱にあっさりと放り投げられたのであった。

 ニューヨークタイムズだけがトランジスタ発明の報道をしたものの、記事は実に小さい扱いであり、ほとんど目立つことがなかった。多少無理がないこともある。発明者のウィリアム・ショックレーですら、トランジスタのアプリを聞かれた時に「補聴器ぐらいには使えるのではないか」と述べるにとどまったからである。

 このトランジスタ発明の報道を日本で最初にキャッチしたのは、東北大学の渡辺寧教授と清宮博氏、吉田五郎氏の3人だといわれている。3人に情報を流したのはGHQ(連合軍総司令部)のフランク・A・ポーキングホーン氏であった。

 渡辺教授はこの情報を入手すると、ただちに永田町の首相官邸裏手にあった電気試験所本部に向かい、この重大な情報を熱情をもって話したとされている。電気試験所は通産省に所属しており、このあと私的トランジスタ勉強会を発足させて内製化に向けての準備を進めるのだ。そしてまた、東北大学は渡辺寧教授の指導の下に、西澤潤一氏(後に東北大学総長)などが死力を尽くしてトランジスタの開発に着手する。

 後にPINダイオードやSITトランジスタ、半導体レーザーなど数々の世界的業績を上げ、ノーベル賞候補に挙げられた《異端の天才》、西澤潤一氏の半導体との出会いの年であった。ちなみに、西澤氏の弟子である大見忠弘教授は半導体装置プロセスの分野でこれまたノーベル賞候補といわれたが、惜しくも2016年に死去された。

 結局のところトランジスタの本当の価値に気が付く人は、世界すべてを見てもまことに少なかった。ましてやこれを使って商業化するという話もほぼ皆無であった。ところが、アメリカで生まれたこのトランジスタの最大価値に気がついたのは東京・御殿山のボロボロ社屋にいた中小企業のオヤジであった。

 その会社とは東京通信工業であり、その設立趣意書には「自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」が謳い上げられていた。この会社こそが、驚異のスピードでトランジスタ事業化に走り、世界初の量産型トランジスタラジオを発表し、国内外のエレクトロニクス関係者をあっと言わせるのだ。そして社名を「ソニー」へと変更することになる。

 つまりは、一流の新聞記者たちが全く気が付かなかったトランジスタの恐るべき将来性を予見したのは、東京の町工場に過ぎなかった東京通信工業、後のソニーであったのだ。そしてこの後にトランジスタの発展形であるIC(集積回路)が米テキサス・インスツルメンツ社のジャック・キルビー氏によって発明されることになる。これまたすぐには好適アプリが見つからなかった。このICを世界的に広める働きをしたのは、大阪の中小企業であった早川電機、後のシャープであった。すなわち、CMOS・ICを搭載した世界初の電卓を開発し、販売に踏み切る。

 世界初のマイクロプロセッサー(MPU)開発で、今日のパソコンからスマホにつながる世界が幕を開けることになるが、これもまたビジコンという日本の小さな会社が企画を立て、インテル社に発注したのがきっかけであった。世界初のMPU、4004の誕生にも日本勢は深く関わっていた。

 米国で生まれたトランジスタ、つまりは世界初の本格的半導体デバイスの進展を強烈に進めていったのは、米国であった。しかして、そのアプリを次々に切り開いていったのは、日本の企業であったことに注目する必要がある。それもほとんどが名もない中小企業であった。

 今年はトランジスタ生誕70周年を迎えるメモリアルイヤーであるが、はてさてこれからの半導体の未来を切り開く強烈なアプリを日本企業が開発成功に至るかどうかは、各企業の新進気鋭のエンジニアたちにかかっているといえるだろう。


泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。30年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『半導体業界ハンドブック』、『素材は国家なり』(長谷川慶太郎との共著)、『ニッポンの環境エネルギー力』(以上、東洋経済新報 社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)など19冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長 企画委員長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。
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