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第9回

半導体商社はどこから来てどこへ向かうのか!!(その3)


~「マイコン登場」で商社はソフト、開発ツール、技術サポートに踏み込む~

2013/5/24

 そして、ついにマイコンが登場してきます。日本の技術者が考え、米国の小さなベンチャー企業であったIntel社に注文した汎用電卓用の論理ICは、この機能を若干改善することでマイクロ・コンピューターとなりました。このヒットでIntel社は米国で最も成功したベンチャー企業の1つとなりました。これは1970年ごろの話ですから、トランジスタ・ラジオの出現から10年でマイコンの出現となったわけです。真空管は落ち目とは言っても、まだまだ真空管でないと扱えない高電力の分野では真空管が残っていました。

 以前の記事で、ハイブリッド、という言葉の使われ方が違う、ということを取り上げましたが、このころは、受信はトランジスタとアナログIC、送信の信号発生や周波数コントロールはやはり半導体、送信出力は真空管といった混成の電子装置が作られていてこのような製品をハイブリッドと言っていました。これに対し、半導体だけで作った機器はソリッドステートといわれていましたが、この言葉も死語でしょうか。

 さて、マイコンが出現してくると、マイコンは従来の電子回路技術者では扱えません。当時はコンピューターと言えばIBMのメインフレーム、DEC(Digital Equipment Corp. )や、データー・ジェネラル社のミニコンが普通でした。日本でも通産省がバックアップして東芝、日立、三菱、NECといった大手はこぞってメインフレームもミニコンに参入し、ある会社はIBMのセカンド・ソースを、別の会社が独自の構造でと、コンピューター自体の技術、速度の競争がありました。

 マイコンが紹介され、認知されてくると、当時は、Intel社の8080から8085、モトローラ社の6800、ちょっと遅れてZilog社のZ80が有名でした。ミニコンでの競争と同様に、これらのマイコンのセカンド・ソースを契約して目指すメーカー、独自のマイコンを開発していくメーカーと、競争はミニコンからマイコンへと展開していきます。

 日本でも大手の電気電子メーカーの系列商社は、このマイコンを売らなければなりません。外資系の半導体メーカーを扱っていた輸入電子部品商社も、その半導体メーカーが作るマイコンを売らなければなりません。しかし、マイコンはデーター・シートや説明書、応用例の載った資料と説明程度では販売できません。まずソフトウエアがありますから、ソフトウエアの開発方法、ソフトウエアを開発できてソフトウエアの間違い、バグを見つけて直すデバッグツールも併せて売らなければなりません。そして当時のマイコンはCPUが1個のIC、RAMも別のIC、周辺回路は論理ICで作るか専用のICを購入しなければなりません。これらを組み合せて基板レベルでやっとコンピューターとして動作します。

 このように電子部品商社でも、部品だけでなく、ソフトウエア、開発ツールの販売を行う必要が出てきました。これは営業員と在庫、運送を主とする商社では無理があります。ところが顧客からも半導体のメーカーからも、マイコン販売への圧力がかかります。そこで、商社でもコンピューターの教育を受けた技術者を雇用してマイコンのサポートに当たらせるようになりました。技術商社の始まりです。

 ですから当時、国産半導体を扱う商社の中では、マイコンの販売とサポートの部門は別の扱いがほとんどでした。半導体メーカーからの技術者と商社の技術者が協力して顧客にマイコンの扱いを教えていきます。

 海外の半導体を扱う商社では、もともと半導体メーカーの人間が来て手伝ってくれませんので、独自にサポートできる技術者を雇っていました。そこで、これを拡充して、マイコンを扱える技術者も雇用するようになりました。

 そして1980年ごろ、1つの大きなヒットが生まれます。テーブル・ゲーム機のインベーダーです。タイトーが作りましたが、出荷台数はコピー品の方がはるかに多かったといわれるインベーダーは、CPUはZ80、4KビットのSRAM、8KビットのEPROM(2708)の構成でした。作れば売れるインベーダーのおかげで半導体メーカーは初めて量産らしい量産をすることになり、メモリーのコストは大幅に下がりました。

 そして、このヒットは「ゲーム業界」という新産業を生むことになります。ゲームセンター専門のアーケードゲーム機も、マイコンの使用で大幅に性能がアップして様々な物が生まれます。

 この数年後、パチンコがマイコン化されます。この時はモトローラの6802というマイコンを使ったパチンコ台が空前絶後の大ヒットとなります。日本のモトローラの支社では本国では作りきれず当時、技術交換をしていた日立が6割のビジネスを棚ぼたで取っています。2年後には、日本のパチンコ台、設置台数400万台の半数以上が、6802を使った1機種となったというのですから、そのヒットの大きさが分かるのではないでしょうか。(続く)
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