電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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システム化されたセット製品開発も大事


~CRTの終焉~

2015/2/27

 カラーCRT(Cathode Ray Tube)が60年の歴史に幕を下ろすという。CRTは、電子ビームがシャドウマスクの100μmほどの穴を通過してRGB3色の蛍光体を発光させ、一瞬では点状ながら、これを磁界で走査し、目の網膜残像特性を利用して画面を作り出すシンプルな構造で60年間、原理不変のディスプレーデバイスであった。

 2015年もインドなどで数百万台の需要があるが、いかんせんガラス窯が寿命を迎え、今も収益事業ながら、ガラスの部品切れで歴史に幕を閉じるようだ。筆者は縁あってCRT事業を国内外で経験したので、波乱に満ちたCRTの歴史と経過を偲んでおきたい。

 カラーCRTは1950年ごろカラーテレビの放送と同時に始まるが、技術的推移では、構造的に丸型から角形へ、さらに画面の曲率を拡大させていく時期を経て完全フラットに至った。これは真空ガラス容器が大気圧に耐え、爆縮を防ぐガラスバルブ設計の挑戦の連続であり、ひとえにガラスメーカーの製品開発の進歩に支えられた。

 重厚長大のCRTは常に全長短縮が課題で、70度偏向(電子ビームの最大偏向角)から90度、110度と広角化し、奥行きも短縮された。結局、広角偏向による全長短縮はテレビの消費電力が増大するというジレンマが生じ、110度偏向に落ち着いた。

 画面のアスペクトレシオは放送方式に従い4対3で始まったが、70年代にNHKが研究を始めた将来のハイビジョンは16対9が最適と決めたこともあって、横長CRTを先行開発した日本は横長テレビを世界で先行発売した。しかし、放送方式は4対3で、無理やりこれを16対9画面に合わせる奇策で画面端の人物が横長に見える違和感のあるテレビも出現したが、結局は横長が主流になった。これにはテレビの販売価格を上げたい思惑が大いに後押しした。

 テレビのサイズは毎年大きくなり、29、33、37型が世界標準となった。最大43インチも製品化されたが、総重量が200kgにもなるテレビは、すべてにおいてサイズの限界であった。大型はPDPだと各社が挑戦したが、これが液晶に世代交代したのはご承知のとおりである。

 性能的には、高コントラストへの挑戦に尽きる。蛍光体はそれ自体が白色だが、ゼニス社が蛍光体の非発光部を黒色にするブラックマトリックスを開発したことで格段に向上。黒い生地のガラスも導入され、さらには黒色蛍光体の開発などによって、究極の理想に近い高コントラストCRTが実現した。そのレベルは今日の液晶技術がいまだに凌駕できない領域とされる。

 昨今、FPDは4K8Kなど高解像度化技術を競うが、少なくともCRT時代、動画特性の向上は高コントラスト、すなわちダイナミックレンジ(ピーク輝度とボディの黒色の差)こそ消費者が「画が綺麗」と評価する特性であり、CRTの性能改良の歴史もそこにあった。

 一方、CRTのビジネスモデルは、テレビ事業の開幕以来、キャプティブ(垂統合型)ビジネスの典型として世界展開した。テレビ事業の成功には基幹部品であるCRTの内製が必須と考えられ、またセットとCRTの融合部分にテレビ作りのノウハウが存在したのも事実だ。

 CRT生産方法は標準化され、生産装置一式100億円(90年代)年間100万個の製造ラインがピーク時には世界で150ライン稼働していた。膨大な特許を欧米企業が保持し、世界で積極的なライセンス供与を展開したため、欧米企業がしたたかにライセンス収入で何百億円も稼ぎ出したことも記しておきたい。

 日本のCRT事業を回顧すると、昨今の液晶のような独立産業として展開した感覚はなく、テレビ事業の世界展開に従って各社が積極的に世界に出た。しかし、一言で総括すると、欧米には貿易戦争に巻き込まれ、引きずり出され、東南アジアにはコスト低減を求めて海外工場を展開した。

 まず米国市場では、80年代に前後して、日本は未曽有のテレビ輸出により貿易戦争に巻き込まれ、テレビの工場進出を余儀なくされた。次いでCRTも80年代後半に大幅なダンピング容疑をかけられ、各社はテレビ事業継続のため急遽、北米(NAFTA圏)にCRT工場を建設した。

 しかし当時、現地の老舗CRT企業はRCAがGEを買収し、後にトムソンに売却。さらにインド資本に売却し、老舗のゼニスは赤字を付録に韓国企業へ売却した。欧州の雄フィリップスも韓国企業に売却した。つまり欧米各社は、もはや利益を生まなくなった事業をアジアに売却し、返す刀でテレビを当地域で売りたいなら現地生産しろと迫った欧米各国の保護政策を駆使して、この事業から切りよく撤退した。

 一方、各社が東南アジアに進出したテレビ事業を支えるため、日本のCRT事業は90年代、積極的に海外工場の建設に邁進し、マレーシア、シンガポール、インドネシア、タイ、そして中国などに進出した。この遠因は、日本のテレビとブラウン管の輸入関税が0%であったことが大きい(欧米の輸入関税はテレビ5%、ブラウン管15%)。海外生産でコスト低減を図り、日本に逆輸入し、日本のテレビ工場は消え、ブラウン管工場も消える運命にあった。とはいえ、海外工場で稼いだ利益を持ち帰り、外貨獲得に大きく貢献したことも記しておきたい。

 図に国別の生産占有率の経過を示す。CRT時代、日本は徐々に占有率を落とし、韓国や台湾勢が台頭し、急速に中国が世界市場を占めるに至った。世代交代をした液晶の生産占有率を見ると、全くブラウン管と同じ経過を辿り、しかもその変化は早い。

CRTと液晶生産基地占有率の推移(出典:IHS)
CRTと液晶生産基地占有率の推移(出典:IHS)

 いずれ中国が世界の生産基地を占めることになるのであろう。なぜそうなるのか。民生機器のフラッグシップであるテレビは巨大販売網で売られる。プライスポイントといわれる値付けは、例えば999ドルの次は、899ドルではなく799ドルになる。このドラスティックな価格要求に応じるには、生産基地を変えて市場要求価格を満たすしか選択肢はない。

 古い経験ながら、日本で200ドルでできた製品は、マレーシアでは100ドルに、中国に移ると35ドルになった。いったん生産基地の移動が進むと、少々の為替変動があろうと回帰はない。民生機器は巨大な世界市場を相手にする限り、どのデバイスも似たような経過を辿ることになる。しかし、主流から逃げれば、そのパイは小さい。

 日本のCRTはどう終焉したのか。欧米は90年代にさっさと事業売却で終結した。一方、日本のCRTはテレビをサポートして世界に展開したが、その後は会社の統廃合を経ながら、00年代後半に多額の費用をかけて累積赤字を解消して終息した。古い産業を切り捨て売却し、新規産業にリソースを集中する欧米企業の変わり身の早さに比べると、日本人は真面目すぎるのかもしれない。

 昨今の民生機器をリードするのはスマートフォンに代表されるIT機器である。ディスプレーはインターフェースとして今後も進展する。しかし、ディスプレーの顧客である機器市場で日本の主導権はどこに行ったのか。機器とディスプレーが一体化して世界展開した時代は、もう来ないのかと案じるなかで、CRTは消える。



IHS Technology ディレクター ディスプレイジャパン 増田淳三、
お問い合わせは(E-Mail : forum@ihs.com)まで。
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