電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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第4回

海外投資にまったく歯止めがかからない


~しかして、国内半導体メーカーの海外進出は成功例なし~

2012/7/20

(株)産業タイムズ社 代表取締役社長 泉谷渉

 「オウムの走る爆弾娘」といわれた菊地直子がとうとう捕まり、高橋容疑者も逮捕されたことで、ひとつの時代が終わりを告げたとの報道が相次いだ。驚くべきことは、あの世間を震撼させた毒ガスサリン事件から実に17年の歳月が経っていたことだ。当時は太ももがプチプチにはち切れそうだった菊地嬢も捕まった折にはげっそりとやせており、まるで別人のようであったが、それにしてもいまだに、オウム系の宗教団体に加盟する若者が増えていることに驚かされる。

 オウムの地下鉄サリン事件がおきたのは1995年3月20日。これに先立つ2カ月前の1月17日には空前の大惨事となった阪神淡路大震災が発生している。大震災と地下鉄サリンのダブルパンチで、日本の戦後成長神話が崩壊したと、当時いわれたものだ。

 だいたいが、95年はろくな年ではなかった。景気低迷で企業倒産は過去最悪を記録し、女子大生は超氷河期という就職難に泣いた。金融不安も増大し、多くの銀行がつぶれ、住専処理で公的資金6850億円を投入することも論議を呼んだ。乱れきった世間の中にあって、官々接待が批判の的となり、「ノーパンしゃぶしゃぶ」にうつつを抜かす官僚たちの堕落ぶりに心ある人たちは嘆いたものだ。

 一方、1995年は、世界半導体産業にとっては記録に残る年となった。実に世界市場は前年比41.7%増という驚くべき成長を遂げ、市場規模は過去最高の1444億ドルを達成した。

 半導体需要を引っ張ったのはなんといってもパソコンであった。マイクロソフトのウィンドウズ95が華々しく登場し、需要を押し上げる大きな役割を果たした。パソコンの伸びに比例してDRAM市場は大活況となり、世界の半導体の約35%がDRAMとなってしまい、品目別では断然のトップに位置し、MPUを凌いでいた。半導体生産額の世界第1位はインテルが4年連続で君臨し、これをNEC、東芝、日立の日本勢ビッグ3が追いかけるという展開であった。

 しかして、2012年の半導体の世界情勢を予感させるようなこともすでに起こっていた。すなわち、95年の段階にあって韓国サムスンは、世界ランク上位10社中、最高の伸び率を示し、実に前年比73%増の83億ドルの売り上げに達したのだ。数年後にはインテルを抜いて世界一に君臨するともいわれるサムスンは、17年前にあってすでにそのパワーを見せつけていたのだ。

 95年当時の日本メーカーの海外展開はどうなっていたのか、と当時の資料を読み返してみれば、雨あられの海外進出ラッシュであり、大型投資が勃発していたことに気づく。NEC(現在はルネサス)は、英国スコットランドではどでかい新工場建設に着手し、インドネシアにも初の半導体工場を立ち上げていた。東芝は、IBMと組んで米国バージニア州に64MDRAMの新工場建設を発表。日立(現在はルネサス)もまた、実に400億円を投じて米国テキサスで32ビットマイコンの新工場建設に踏み切り、ドイツのランツフートにおいてもマイコンの現地生産が開始されている。ソニーの海外展開も加速し、米国テキサスの工場増強、北米における現地法人設立、さらにはシンガポールにおけるデザインセンター設置を果たしている。

 こうした17年前の記録を見ていると、実のところ頭がくらくらしてくるのだ。あれほどまでに注力した国内勢の海外投資はいまやもくずと消えはて、その名残りすらほとんど残っていない。95年当時も空前の円高といわれた時期であり、これに対応しての海外生産移行、さらには海外ユーザーに近いところで作るという効率性の追求が、海外工場加速の主因ではあったのだ。夢のまた夢、という言葉があるが、海外に賭けた国内メーカーの当時の想いは、今どこをさまよっているのだろう。とにもかくにも結論としては、おびただしく展開された海外工場は、すべてといっていいほどになくなってしまった。言い方を換えれば、こと半導体産業に限っては、日本の海外投資は実績としてまったく成功していない。

 こうした感慨にふけりながら、今日もいくつかの新聞を読み込んでいたら、ほとんどすべての面にわたって国内製造業の海外展開急加速という様々な記事が眼に入ってきた。全産業レベルで見ても海外投資比率は、10年前の30%程度から実に45%まで急増しているのだ。福岡に本社のある半導体関連企業の社長に先ごろ取材したが、吐き捨てるように彼はこうつぶやいた。

「それは日本で生まれて育った企業だから、日本に工場を建てたいよ。しかし、韓国では電力料金は日本の3分の1だぜ。税金も非常に安い。補助金も多い。どうにもならないとはこのことだ。国内量産の拠点をすべて韓国に移すことを決断した」

 こうした海外投資急拡大を背景に、日本国内の工場立地件数は昭和40年代の5853件から、今や700~800件レベルまで一気に後退している。工場立地面積についても同じく昭和40年代前半の6355haから2000ha以下に急落している。こうした傾向に対し、経産省も手をこまねいているわけではない。国内に投資する企業に対し、バラマキといってよいほどの補助金5000億円を用意し、投入した。しかしながら、それでも海外投資はどうにも止まらない、のが実情だ。

 国内でモノづくりを進める製造業に対し、もっともっと手厚い産業政策が必要なのだ。そしてまた、円高に持っていかせないための金融政策も大胆にやらなければならない。ところがどうして、政治の世界を見れば小沢のいっちゃんの女房が三行半を突きつけただの、民主党分裂で美人の新入生議員はほとんど落選だの、ろくな話題が出てこない。政府は本気になって国内のモノづくりを守る決断をしなければ、実質GDPの7割を占めるという国内製造業の空洞化は、今度こそ避けられないだろう。

工場立地件数と向上立地面積の推移

国内企業の投資動向推移

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