電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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第7回

半導体商社はどこから来てどこへ向かうのか!!(その1)


~「ああ、なつかしの秋葉原・真空管の時代に多くの商社誕生」~

2013/5/10

 唐突ですが、なぜ秋葉原は電気屋街なのでしょう? 昨今は、オタク族の街であったり、アニメのキャラクターの街であったりしていますが、もともとは電気製品を売る店が集中しており、一時は家電製品の国内販売の3割以上が秋葉原で売られている、という時代がありました。

 昔の秋葉原の発端を知る人はリタイアされていなくなりましたが、第2次大戦後、敗戦国の日本には米軍が駐留していました。この米軍が不用品や廃棄品を安価で売り、この古物を買ってきて売るバッタ屋といわれる商売が盛んとなり、その不用品は軍服、自動車部品などいろいろありました。軍用の通信機の壊れたものもあり、その壊れた通信機から部品を外して販売する業者がなぜか秋葉原に集まってきました。これが、今の秋葉原電気街の始まりと認識しています。

 筆者が40年程前、大学生であったころ、親に無理を言って2系統の通学定期を買ってもらいました。1つの経路は普通に大学へ行く経路、もう1つが大学の帰りに秋葉原に行くためのものでした。

 さて、筆者は中学生でアマチュア無線の免許を取り、そのころ通信機(リグ)を自作で作り始めます。50年前ですから、トランジスタはいまだ高嶺の花で、中古や再生の真空管で受信機(ラジオ)と送信機を作ります。この部品のほとんどは秋葉原で調達していました。再生真空管を買う時、試験器で、ヒーターが赤く光り、増幅度があり、ガラス管内部のマグネシウムが銀色であればOKでした。

 この時、全日本真空管マニュアルという本が虎の巻で、この本には日本でも作られていた通常の真空管の型番に加えて、米軍での型番も載っていました。同じ真空管ですが、軍用の物は別の型番だったわけです。これは秋葉原の怪しげな店で普通の真空管より安価で売られていました。しかし性能は段違いに米軍からの中古品の方が良く、筆者は好んでこの高性能真空管を使っていて、アマチュア無線の仲間を煙に巻いていた記憶があります。

 当時、ちょうどラジオが(AMだけです)トランジスタへの切り替え時期でしたので、ゴミ拾いの元締めがあり、そこで真空管ラジオが多く回収されていました。当時のラジオからは、トランスは鉄と銅、シャーシは鉄、シールドケースはアルミが回収できるので、廃品物回収業者には美味しい物でした。しかし、真空管はガラスと少量の金属ですから、厄介物扱いで、「バケツ一杯いくら」という信じられないくらい安価に購入することもできました。このまとめ買いした真空管を自宅で1本1本検査して、これはボケている、これは使えると区分けするのも趣味と実益を兼ねた楽しい時間でした。

 中学生の小遣いはたかが知れていますので、オシロスコープもオシロ用のブラウン管とシールドケースだけを購入して自作しましたし、真空管の試験に使う増幅度、モーを計る機器も自作です。今のように専用のICを組み合わせさえすれば何かが作れる、という時代ではなく、遣り繰り算段で何とか電波を出していました。

 この何かを工夫して作る経験は良い経験でしたが、そのための勉強になるのが秋葉原の電気部品を売っているお店で、こういう部品を探しているというと、これならこう使えるよ、と丁寧に教えてくれたものです。

 しかし、時代が下がり、真空管を売る店が次々と閉店をしていきました。このころには日本の電機・電子メーカーもだいぶ良い製品が作れるようになってきていて、日本製=安物、安価ですぐ壊れる、との評判を実力でひっくり返し、日本製も使える、としてきました。

 このころが多分、日本で電子部品商社が出来始めたころでしょう。筆者の知る限り、日本の電子部品商社、当時は半導体は稀でしたから、コネクター、抵抗、キャパシタと何でも売っていましたが、その多くの商社はメーカーの系列か、メーカーからスピンアウトした人が作った商社でした。

 筆者が良く知るある商社はT社の系列で、始まりは真空管の商社でした(だから冒頭に長々と真空管の昔話をさせてもらいました)。真空管には、ヒーターを温める低電圧、5Vと6.3Vに加え、直流の高電圧が必要で、100Vから300Vといった高い電圧へ変換するトランスが必要でした。そして真空管は通常ソケットに入れて使います。ですので真空管を販売すればソケットも同時に販売する必要があります。そして、真空管は大きな電力を必要としますので、抵抗器やキャパシタも大きく、倉庫も大きな物が必要、重いので運ぶにもトラックが必要と、まるで物流業者でした。

 真空管が最も必要とされたのは、先に放送が終了しましたが、地上アナログ波のテレビ放送でした。VHFの電波を増幅し、同期信号を分離し、モノクロのテレビで2万V、カラーでは5万Vをブラウン管に掛けるための高電圧の発生器も必要です。真空管で鋸歯状波の直線部分を直線に保つのは難しく、いつも調整に苦労した記憶もあります。何しろテレビ1台で、真空管を23本(最低?)も使います。5球スーパーが主流であった真空管ラジオより良いビジネスであり、儲かるビジネスでした。

 S社がポケットラジオをトランジスタで作って国内で販売を始めたころ(1960年ごろ)は、いまだ、テレビはモノクロの時代です。ここから5年でテレビはカラーとなり、1964年の東京オリンピックでは、自衛隊のブルーインパルスが東京上空にスモークで描いた、五輪の輪をカラーで見られた人はいまだ少数であったはずです。

 ですので、この時代、電子部品商社の大半はメーカー系列でしかも、秋葉原の中古部品を売っていたような店が宗旨替えをして、商社にグレードアップした会社が多かったのです。その多くは家内経営の小さい商社でした。T社やM社の系列商社でも数百人程度だったでしょう。そして、本拠を秋葉原においている商社が多かったのも、秋葉原が部品街であった証左といえるのです。(続く)
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