電子デバイス産業新聞(旧半導体産業新聞)
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第427回

「わが心の東芝大分」というロマンチシズム


かつての国内最大の半導体工場は今も生きている

2021/4/2

 1970(昭和45)年は、大阪万博が開催され、日本中がフィーバーとなった年であった。実はこの年は、半導体製造装置の国産化元年というメモリアルイヤーでもあった。さらに言えば、かつて世界最大のメモリー工場であり、後に国内最大の半導体工場にのし上がる九州日本電気が熊本に誕生した年でもあった。

 NECによる九州日本電気竣工から遅れること約1カ月、東芝もまた期待の大型新鋭工場である大分工場を1970年6月に竣工する。これに先立つ4月、川崎トランジスタ工場と大分工場の1200人という大勢の入社式を川崎市公会堂で行うが、この大量採用が当時話題となり、その様子はNHKにより全国に放映された。

 大分の用地は、当時で3万5000坪に及ぶという大型工場であり、東芝は大分の前工程をサポートするIC組立工程を主とする協力工場づくりにも着手する。この協力工場の選定は実にユニークで、もともと製材業や紡績業を経営していた地場企業に技術移転を進めたが、これらの企業の熱意があって成功する。大分電子、仲谷電子、田北電機などがその後もシリコンサイクルの厳しさを乗り越え、発展していくのだ。

 「東芝大分は、1980年代に一大発展を遂げていく。1M DRAMで世界最先行し、断トツのシェアを握っていくのだ。国内外に東芝大分の名前はとどろいた。そして、国内最大半導体工場と言われた九州日本電気を追い抜いて、東芝大分が国内トップの半導体工場となっていく」

 感慨深げにこう語るのは、ジャパンセミコンダクター社長の森重哉氏である。同社は、東芝大分の後身とも言うべき存在であり、現在も様々な半導体を量産しており、シリコンファンドリーも手がけている。敷地面積は31万3000m²であり、東京ドーム6個分の広さを持ち、1000人以上の従業員が働いている。

 前記の森社長は、大分県の半導体産業のネットワーク化を狙いとする「大分県LSIクラスター形成推進会議」の会長の任にもあり、かつて東芝大分工場長を務めた経験もある人だけに、陣頭指揮で大分の居並ぶ半導体企業を引っ張っている。

 「東芝大分の存在は大変なものであった。今日においても、大分県下に林立する半導体関連企業は東芝大分によって育てられた、という会社が多い。自分は若い頃から東芝大分近くのガソリンスタンドで働いていたが、その頃の思い出は数多い」

ジャパンセミコンダクター(かつての東芝大分)には西室もと社長の植樹もある
ジャパンセミコンダクター(かつての東芝大分)には西室もと社長の植樹もある
 こう語るのは、「大分県LSIクラスター形成推進会議」において幹部を務めるスズキの鈴木清己社長である。その憧れのような目線は、このクラスターに所属する多くの社長たちにもよく見られることであった。「わが心の東芝大分」というロマンチシズムが、そこにはあるのである。

 ジャパンセミコンダクターの森社長に、大分の良いところは何ですか、と聞いたところ、にっこりと笑いながら、しかもはっきりとこう答えたことをよく覚えている。

 「大分県は気候も穏やかで、人も穏やかなところである。温泉日本一の県であり、まったりとしているが、勤勉な県民性だ。大分の集積回路製造業の製品出荷額は約2400億円となっており、県の経済・雇用を牽引する重要な産業という位置づけは全く変わっていない」

 ところで、読者の皆様は「大分の二度泣き」という言葉をご存知であろうか。何しろとてもよいところであるからして、ほとんどの人が外に出ていかない。そして一方、大分に来る時には、「あんな田舎に転勤したくない」と泣いてしまうというのだ。ところが、大分を離れる時に「来てみたらいいところだ。もう帰りたくない。」と言って泣くというのである。


泉谷 渉(いずみや わたる)略歴
神奈川県横浜市出身。中央大学法学部政治学科卒業。35年以上にわたって第一線を走ってきた国内最古参の半導体記者であり、現在は産業タイムズ社 社長。著書には『自動車世界戦争』、『日・米・中IoT最終戦争』、(以上、東洋経済新報社)、『これが半導体の全貌だ』(かんき出版)、『心から感動する会社』(亜紀書房)、『君はニッポン100年企業の底力を見たか!!』(産業タイムズ社)など27冊がある。一般社団法人日本電子デバイス産業協会 理事 副会長。全国各地を講演と取材で飛びまわる毎日が続く。
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